Category: 知られざるブラックカルチャー
アンクル・トムたち
小学生の時に読んだ「アンクル・トムの小屋」は、今思えば私の人生で最初の、黒人奴隷の物語だった。日本では「ストウ夫人」で知られた、ハリエット・ビーチャー・ストウの、実在した奴隷をモデルに書いた1852年の作品。
リンカーンによる奴隷解放宣言の10年前。南北戦争の火付け役になった、とも言われる本である。
初老の黒人奴隷トムは、最初は情けの深い主人の元で厚遇を受けていたのであるが、転々と売られて行く先で、最後は最悪の主人に暴行されて悲惨な死を遂げる。
奴隷の待遇というのは様々で、それは主人によって天国と地獄の違いであったと言う。
大切な労働力なので丁寧に扱う主人も居たし、新たな「財産」を生んでくれる健康な女性の奴隷たちも厚遇されていた場合も多い。
「大切に」扱うのは、転売する場合に健康な方が高く売れるという都合もあるし、奴隷たちの逃亡を防ぐためでもある。
スレーブキャチャーと呼ばれる逃亡奴隷を捕まえるプロを雇うのにも、大金がかかるのだ。
いずれにせよ、どんなに厚遇されていたとしても奴隷はただ「大切な物」というだけで、家族と同様に見なされるわけはない。
一方、逃亡した奴隷が捕まえられて、見せしめのためにひどい拷問に遭うのも、女性たちが主人に強姦されるのもよくあった話。
現在の、奴隷を先祖とするアメリカ黒人には、100%アフリカ人の血である者は居ないと言われ、必ず白人の血が流れているのもこれが主な原因である。
ストウ夫人は最初この小説を、奴隷制廃止論者により発行されていた機関紙に連載していた。彼女は、熱心な奴隷制反対論者で会衆派教会説教者である両親の元に生まれる。物語にキリスト教的な教えがちりばめられているのは、その影響であろう。
アンクル・トムは、自分にひどい仕打ちをした人間たちを、最後に「許す」と言って死んで行く。
これはキリストの、自分を迫害した人間たちを赦す行為とだぶる。
「許す」という行為とうのは、実は怒りよりも痛烈な批判とも言えよう。
南部の奴隷制に、あぐらをかいている人たちへの批判。
南部の人間たちは、奴隷制に長い間依存してしまっていて、自分たちが人間として最悪の愚行をしている事が見えていない。
ストウ夫人は、アンクル・トムをこのような人物像で描く事によって、奴隷制度賛成の人々の愚かさと醜さを浮き彫りにしようとしたのだ。
ストウ夫人の奴隷の描き方に対して、悪意があるとは思えない。
ところがアメリカに住むようになって、黒人たちが「アンクル・トム」の事を「軽蔑すべき黒人」と受け取っている事に驚いた。
白人に媚びへつらう黒人、白人に頭を下げる黒人、白人にNOと言えない黒人。。。。そういう黒人の事を、今では「彼はアンクル・トムだからさ」と比喩する。
描く側の立場というのは、描かれる立場の事をどんなに考えていようとも、その立場に生まれ変わる事は無理な事。
意図しない所で、描かれている立場の神経を逆撫でする。
この話では、親切な白人が奴隷たちを庇護する様子が理想的に描かれている。
トムは人格者で敬虔なクリスチャン。。。そして白人に対し素直に従う働き者。
黒人と白人が同じレベルに立っている人間だとするならば、白人が黒人を庇護する事自体白人側の奢りであり、黒人側にとっては侮辱そのものなのだ。
であるから、ストウ夫人によって好意的に書かれた作品、また善意そのもののストウ夫人さえも批判の対象となってしまう。
「アンクル・トムの小屋」の小説は、それでも存在に大きな意味があると私は信じる。
人物像はどうであれ、ストウ夫人のようなアクティビストが居なかったらアメリカは変わらなかったと思うから。
「奴隷依存症」の立場から見た物語が、あの有名な「風と共に去りぬ」だ。
「風と共に去りぬ」に出て来る黒人奴隷たちも、非常に主人に忠実だ。
いわゆる、「アンクル・トム的」な奴隷たちがオハラ家にはオンパレードで登場する。
南部の白人貴族たちから見た、都合のいい奴隷像。
オハラ家に仕える「マミー」は太っていて、声が大きい。これは黒人女性のステレオタイプ。こういう描き方を白人側がするのは、今ではタブーとまでなっている黒人女性像。
若いプリッシーという奴隷の娘は、頭がちょっと弱くてやたらと子供じみている。簡単に言えば、黒人は頭が悪く、無能な子供のように単純である、という認識。
この奴隷たちは、奴隷制度が廃止された後もオハラ家に残って仕えることを選ぶ。
黒人は白人のような頭脳を持っていない。だから奴隷として保護してあげるのだ、という「親切心」。
そこには黒人に対するあからさまな蔑視や敵視はない。「家族のように」扱ってあげる。
しかし敵視でない分、差別とは表向き分かりにくく、それだけに社会や体にしみ込んだ人種差別の根の深さを感じるのである。
「アンクル・トムの小屋」が奴隷制反対の物語であるのに対し、「風と共に去りぬ」は奴隷制賛成派のプランテーション農園主の貴族の話。
「アンクル・トムの小屋」から、84年も経ってから出版された本である。
ストウ夫人もマーガレット・ミッチェルも、同じ白人女性。
なのにこの観点の違いは、ストウ夫人が北部コネチカット州出身(両親はボストン出身)だったのに対し、ミッチェルは南部アトランタ出身だったという事実が大きい。
北部と南部では、社会的政治的な相違はもちろん、人々の価値観や考え方にも大きな開きがあった。
アフリカから連れてこられた1000万人以上の黒人の全てが、南部のプランテーションに飲み込まれた。奴隷制プランテーションとは、安価な奴隷を使い、単一作物を栽培する大規模農園のことである。
白人たちが手に入れた綿花による巨万の富は、奴隷制無しではあり得なかった。
「風と共に去りぬ」は、白人貴族たちにとっての古き良き時代のノスタルジー物語だと言ってよい。すなわち、奴隷制度も懐古の対象なのである。
小説には、スカーレットが黒人奴隷をののしる軽蔑的な言葉がどんどん出て来る。
これは、作家マーガレット・ミッチェルの無意識な差別精神が、主人公の口に反映されている。
黒人だけでなく、奴隷制度に反対する北部の白人にさえ「nigger」という蔑称で呼ぶ。
映画では全部省かれているが、スカーレットをとりまく白人男性たちはレット・バトラー以外は全員KKK(白人至上主義団体)のメンバーだし、それらを肯定して描かれている。
改めて読むと、どうしようもない人種差別小説なのだ。
昔好きだった小説も映画も、一度別の立場から見直してしまうと、もうそれは以前と同じような作品には見えない。
表現の自由は大切で、どんな立場からもいかように書いてもいい。
ただ読む目線を変えてみると、昔出会った作品とは別物となって違う意味をおびてくる。
今でも私は、「風と共に去りぬ」は名作だと思っている。
当時の南部貴族の目に浮かぶような描写。映画における、テクニカラーの美しい壮大な風景、ストーリー展開とあの時代とは思えぬ技術。
そして白人貴族の優雅な生活が、いかに奴隷制度の上に成り立っていたかが描かれている点においても。
南部貴族がいかに奴隷制度に依存して、正常な感覚を麻痺させていたかを示してくれている点においても。
差別意識というのは、無意識のうちに彼らの「親切心」や「良識」の中にしみ込んでしまっている根深さを見せつけてくれている点においても。
そして、黒人の自由を拘束している事に対して、誰もなんの罪の意識を持っていない事が描かれている事においても。
この映画で、黒人で史上初のアカデミー助演女優賞を受賞したマミー役の、ハティ・マクダニエル。
彼女の役柄は、「白人の主人に近づき過ぎ(物言い過ぎ)」と南部の白人観客たちには批判され、ステレオタイプ的なメイド役は黒人側からも評判が悪かった。
アトランタで行われた特別試写会は大熱狂に包まれたが、マクダニエルは黒人であるが故、劇場に招待されなかった。
南部の人種差別は、風と共には去って行かなかった。