Category: 知られざるブラックカルチャー
日本でもかなり前から、ブラックカルチャーなるものが紹介されるようになった。
ドレッドヘアにする日本人の若者まで沢山居た時代もある(今も??) 直毛にわざわざ、アフロというか乱暴な爆発パーマをかけ、それからドレッドにすると言う。美容院で10時間ほど過ごすらしい。アフロをかけた時点で美容師も疲れてしまい、歌舞伎の獅子のような頭で外にランチ休憩に行って、世間の注目を浴びた知り合いの男性も居る。ファッションのための忍耐。その日本男児の気合いとご苦労は、「Good Hair」にも書いたがアメリカの黒人女性にも負けず劣らず。
それからヒップホップ系ファッションの到来で、ジーンズをやたらと下げて歩く日本人男性も居た(今も??) そんな格好などしない黒人たちからは、失笑もかっていた半ケツ見せファッション(腰パンと言うらしい)。アメリカでも、そういう格好をしていた黒人というのは、一部である。
黒人というのは、お尻がポコッと形よく出ているので、腰の途中で止めても、山のてっぺんで引っかかる。かなりズリ下げていても、腰の位置が高いので、短足に見えない(例外は居る)。
しかし、日本の胴長短足君がやっちゃうと、ヘタすりゃ股下40cmくらいになる。平らなお尻で止めようとするので、ベルトでかなり絞めないと本当に落ちてしまう。ファッションはど根性である。
何かに憧れたりして、何かになりきったりするのは若者の特権なので、それはそれでいいと思う。若気の至りを利用して、したい年齢の時に十分して、卒業しておくべきだ。
高齢になって目覚めてドレッドヘアにしたりなんかすると、そもそも弱ってきている頭皮を痛めてしまって、二度と髪が生えてこなくなる恐れもあるから。
文化の浸透というのはすごい。近年はスピードも速い。元気な文化というのは、どんなに変でも可笑しくても広まって行く。
逆にどんなに高尚な文化でも、「保護しよう」なんて考えられる文化は、既に廃れている証拠なのである。
「元気な」ヒップホップ文化は、誰が止めようと思っても、止められない勢いを持っている。
しかし、文化というのは真似されても、表面だけが取り入れられて終わってしまう物が圧倒的に多い。
カッコいいからと模倣しても、その歴史や背景、哲学や精神までは受け継がれない。そもそもバックグラウンドが違う文化なのだから、受け継げるわけもないのである。
中身は完全に無視して、表のファッションだけを受け継ぐのも、それはそれでいつの時代もあることである。そもそも、「軽い」から流行るのだ。いや、軽い部分だけ、流行るのだ。
ブラックカルチャーに憧れる若者は、日本人だけではなく、アメリカの白人の若者たちも同じ。夏休みに、シカゴの郊外の白人居住地や周辺の白人の多い州から、「冒険」しにシカゴの街にやって来る若者たち。黒人の多い店に行き、ちょっとイキがってみせる。
そこで多いのは、うちの夫を含め、店に居る黒人たちに、やたらと汚い英語で喋りかける白人の若者たち。そういう言葉が、カッコいい「黒人英語」だと勘違いしているのだ。テレビや映画で「学んだ」ブラックイングリッシュを駆使し、「俺は話せる白人だぜ」とでも言いたげに、「”ヨーヨー”英語」で頑張る。
迷惑するのは、白人にそんな英語やラッパージェスチャーで話しかけられる黒人たち。口をあんぐり開けて、「エミネムになりたい症候群」の白人若者たちを見つめてしまう。
“mother fu**er”なんて言葉が、一般の黒人たちの挨拶言葉くらいに思われているとしたら、それはメディアの重大責任であろう。そして、「冒険しに来る」白人の若い男の子たちは、やたらとこういう言葉を使うのである。
。。。。無理しすぎ。。。。
模倣というのは、やたらむやみにしても、失笑をかうだけなのである。コピー商品、模倣建築、模倣キャラクター。。。真似されている方は、失笑を通り越して不愉快になるときも多い。表面だけ真似をして、「アンタたちの仲間に入れてよ」と訴えても、相手にそれは通じない。
黒人男性と挨拶する時に「ヘイメーン!」とか言って握手したり、やたらと「ブラザー」とか言ったりして、ブラックっぽく行動したいアジア人とかも見かける。「ブラックな」握手を交わしても、それは「同胞」と見なされた訳ではない。
ちなみに黒人男性は皆同胞を「ブラザー」と言うと勘違いしている日本人も多いが、うちの夫も従兄弟たちにも、血縁関係の無い他人の事を「ブラザー」なんて呼んだりしない。ただ、見知らぬ黒人から路上で「ブラザー」と馴れ馴れしく呼ばれる事はある。そう呼ぶ人たちは決まってなにか、「黒人同士だから分かり合えるぜ」「黒人同士だからお金くれるよね」「助けてくれるよね」と、自分と同じ肌の色の人に甘い期待を抱かないと生きて行けない輩たちである。教養のある人間たちは、見た事もない人間を肌の色だけで判断して「ブラザー」などと言ったりしない。
白人たちがどんなに表向きに友好的であっても、白人と他人種との間にきっちり線を引くように、黒人たちの線の引き方もキッパリしている。
必ずしも差別的行為とは思わないが、区別はきっかりするのである。これは人類誰しもが持っている性みたいな物だと思う。良い悪いは別として。
黒人男性が、黒人男性としか交わさない「挨拶」というのがある。
これは、相手を黒人男性と見なした時にしかしない。知り合い同士は握手や言葉などという挨拶手段があるが、ここで言うのは「お互いに知らない黒人男性同士」の挨拶である。目が合えば、必ず交える挨拶。。。。アゴをクッと上に上げるだけの、簡単なもの。
至る所でそれは交わされる。クラブで、エレベーターの中で、通りを歩いていてすれ違いざま、スーパーで、公園で、コンサート会場で、レストランで。。。。。”Hello”も”Hi”も、一切の言葉の無い、 アゴの「クッ」だけ。
連れの奥さんやガールフレンドが白人やアジア人であろうが、これだけは「絶対に」なされる。白人家庭の養子で、白人の環境で育った黒人でもこれはする。何故なら、こういう慣習を家庭や学校で教わらなくとも、「世間」に出て自分が黒人と見なされれば、黒人たちから「クッ」とされるので、自然に覚えるわけだ。
黒人があまり多くないシチュエーションになるほど、それは顕著になる。白人地域のレストラン、ショッピングモール、公園、ビーチ。。。そういう場所で有色人種は目立つ。そして、滅多に居ない黒人男性がすれ違うと。。。「クッ」。
「クッ」には、色んなメッセージが込められているのかもしれない。
アメリカのスポーツ選手というのは、スターであっても地元の普通の店に、ふらっと現れて酒を飲んでいたりする。友人が経営するレストランで夫と食事をしていると、仕立てのいいスーツを着た黒人男性が1人で、目の前のカウンターに座っている。その部屋には黒人は彼と、私の夫だけであった。2人は目が合うと「クッ」
やたらと背が高い人だなあ。。。と思っていたら、有名なシカゴのNBA選手だった。夫と彼は、個人的な知り合いでもなんでもない。「黒人」という共通点があるだけである。
同じように黒人の少ないバーで、野球選手と会った事もあった。ボー・ジャクソンというWhite Soxの黒人選手だったが、彼は他の白人客に対しては単にスターにありがちな笑顔を振りまいていたのに、夫がカウンターに寄った時には明らかに知り合いのような素振りで近づいて握手してきた。「意外な所に居る黒人」というのは、どこかの誰かで自分とつながっているかもしれない。。。みたいな気持ちがあるのかもしれない。夫は、黒人が居るというだけで挨拶しにいくタイプの人間ではないが、彼自身がそうじゃなくても挨拶「される」のである(笑)
習慣や文化というのは、自ら進んで育まなくても、受け身の状態でも十分に身に付くものである。
夫自身はブラックだとかホワイトだとかで人間を見る人ではないのであるが、人からブラックだと見なされる事で身に付くブラックカルチャーという物は大いにあるのだ。その一つが、こういうブラック的挨拶であると思う。
前に「ステレオタイプ」のエッセーで書いたが、ステレオタイプでない人間に染み付いたこういうカルチャーこそ、奥深いのだ。
「クッ」の挨拶は、いつの間に交わされてるのかも、黒人男性でない者には知る由もない。非常にさりげない。何千回も何万回も繰り返されるうちに身に付いた、体の一部みたいなもの。
直毛にパーマをかけてドレッドヘアにするとか、パンツずり下げファッションといった「カルチャー」からは、ほど遠い位置にある。
ドレッドヘアにする日本人の若者まで沢山居た時代もある(今も??) 直毛にわざわざ、アフロというか乱暴な爆発パーマをかけ、それからドレッドにすると言う。美容院で10時間ほど過ごすらしい。アフロをかけた時点で美容師も疲れてしまい、歌舞伎の獅子のような頭で外にランチ休憩に行って、世間の注目を浴びた知り合いの男性も居る。ファッションのための忍耐。その日本男児の気合いとご苦労は、「Good Hair」にも書いたがアメリカの黒人女性にも負けず劣らず。
それからヒップホップ系ファッションの到来で、ジーンズをやたらと下げて歩く日本人男性も居た(今も??) そんな格好などしない黒人たちからは、失笑もかっていた半ケツ見せファッション(腰パンと言うらしい)。アメリカでも、そういう格好をしていた黒人というのは、一部である。
黒人というのは、お尻がポコッと形よく出ているので、腰の途中で止めても、山のてっぺんで引っかかる。かなりズリ下げていても、腰の位置が高いので、短足に見えない(例外は居る)。
しかし、日本の胴長短足君がやっちゃうと、ヘタすりゃ股下40cmくらいになる。平らなお尻で止めようとするので、ベルトでかなり絞めないと本当に落ちてしまう。ファッションはど根性である。
何かに憧れたりして、何かになりきったりするのは若者の特権なので、それはそれでいいと思う。若気の至りを利用して、したい年齢の時に十分して、卒業しておくべきだ。
高齢になって目覚めてドレッドヘアにしたりなんかすると、そもそも弱ってきている頭皮を痛めてしまって、二度と髪が生えてこなくなる恐れもあるから。
文化の浸透というのはすごい。近年はスピードも速い。元気な文化というのは、どんなに変でも可笑しくても広まって行く。
逆にどんなに高尚な文化でも、「保護しよう」なんて考えられる文化は、既に廃れている証拠なのである。
「元気な」ヒップホップ文化は、誰が止めようと思っても、止められない勢いを持っている。
しかし、文化というのは真似されても、表面だけが取り入れられて終わってしまう物が圧倒的に多い。
カッコいいからと模倣しても、その歴史や背景、哲学や精神までは受け継がれない。そもそもバックグラウンドが違う文化なのだから、受け継げるわけもないのである。
中身は完全に無視して、表のファッションだけを受け継ぐのも、それはそれでいつの時代もあることである。そもそも、「軽い」から流行るのだ。いや、軽い部分だけ、流行るのだ。
ブラックカルチャーに憧れる若者は、日本人だけではなく、アメリカの白人の若者たちも同じ。夏休みに、シカゴの郊外の白人居住地や周辺の白人の多い州から、「冒険」しにシカゴの街にやって来る若者たち。黒人の多い店に行き、ちょっとイキがってみせる。
そこで多いのは、うちの夫を含め、店に居る黒人たちに、やたらと汚い英語で喋りかける白人の若者たち。そういう言葉が、カッコいい「黒人英語」だと勘違いしているのだ。テレビや映画で「学んだ」ブラックイングリッシュを駆使し、「俺は話せる白人だぜ」とでも言いたげに、「”ヨーヨー”英語」で頑張る。
迷惑するのは、白人にそんな英語やラッパージェスチャーで話しかけられる黒人たち。口をあんぐり開けて、「エミネムになりたい症候群」の白人若者たちを見つめてしまう。
“mother fu**er”なんて言葉が、一般の黒人たちの挨拶言葉くらいに思われているとしたら、それはメディアの重大責任であろう。そして、「冒険しに来る」白人の若い男の子たちは、やたらとこういう言葉を使うのである。
。。。。無理しすぎ。。。。
模倣というのは、やたらむやみにしても、失笑をかうだけなのである。コピー商品、模倣建築、模倣キャラクター。。。真似されている方は、失笑を通り越して不愉快になるときも多い。表面だけ真似をして、「アンタたちの仲間に入れてよ」と訴えても、相手にそれは通じない。
黒人男性と挨拶する時に「ヘイメーン!」とか言って握手したり、やたらと「ブラザー」とか言ったりして、ブラックっぽく行動したいアジア人とかも見かける。「ブラックな」握手を交わしても、それは「同胞」と見なされた訳ではない。
ちなみに黒人男性は皆同胞を「ブラザー」と言うと勘違いしている日本人も多いが、うちの夫も従兄弟たちにも、血縁関係の無い他人の事を「ブラザー」なんて呼んだりしない。ただ、見知らぬ黒人から路上で「ブラザー」と馴れ馴れしく呼ばれる事はある。そう呼ぶ人たちは決まってなにか、「黒人同士だから分かり合えるぜ」「黒人同士だからお金くれるよね」「助けてくれるよね」と、自分と同じ肌の色の人に甘い期待を抱かないと生きて行けない輩たちである。教養のある人間たちは、見た事もない人間を肌の色だけで判断して「ブラザー」などと言ったりしない。
白人たちがどんなに表向きに友好的であっても、白人と他人種との間にきっちり線を引くように、黒人たちの線の引き方もキッパリしている。
必ずしも差別的行為とは思わないが、区別はきっかりするのである。これは人類誰しもが持っている性みたいな物だと思う。良い悪いは別として。
黒人男性が、黒人男性としか交わさない「挨拶」というのがある。
これは、相手を黒人男性と見なした時にしかしない。知り合い同士は握手や言葉などという挨拶手段があるが、ここで言うのは「お互いに知らない黒人男性同士」の挨拶である。目が合えば、必ず交える挨拶。。。。アゴをクッと上に上げるだけの、簡単なもの。
至る所でそれは交わされる。クラブで、エレベーターの中で、通りを歩いていてすれ違いざま、スーパーで、公園で、コンサート会場で、レストランで。。。。。”Hello”も”Hi”も、一切の言葉の無い、 アゴの「クッ」だけ。
連れの奥さんやガールフレンドが白人やアジア人であろうが、これだけは「絶対に」なされる。白人家庭の養子で、白人の環境で育った黒人でもこれはする。何故なら、こういう慣習を家庭や学校で教わらなくとも、「世間」に出て自分が黒人と見なされれば、黒人たちから「クッ」とされるので、自然に覚えるわけだ。
黒人があまり多くないシチュエーションになるほど、それは顕著になる。白人地域のレストラン、ショッピングモール、公園、ビーチ。。。そういう場所で有色人種は目立つ。そして、滅多に居ない黒人男性がすれ違うと。。。「クッ」。
「クッ」には、色んなメッセージが込められているのかもしれない。
アメリカのスポーツ選手というのは、スターであっても地元の普通の店に、ふらっと現れて酒を飲んでいたりする。友人が経営するレストランで夫と食事をしていると、仕立てのいいスーツを着た黒人男性が1人で、目の前のカウンターに座っている。その部屋には黒人は彼と、私の夫だけであった。2人は目が合うと「クッ」
やたらと背が高い人だなあ。。。と思っていたら、有名なシカゴのNBA選手だった。夫と彼は、個人的な知り合いでもなんでもない。「黒人」という共通点があるだけである。
同じように黒人の少ないバーで、野球選手と会った事もあった。ボー・ジャクソンというWhite Soxの黒人選手だったが、彼は他の白人客に対しては単にスターにありがちな笑顔を振りまいていたのに、夫がカウンターに寄った時には明らかに知り合いのような素振りで近づいて握手してきた。「意外な所に居る黒人」というのは、どこかの誰かで自分とつながっているかもしれない。。。みたいな気持ちがあるのかもしれない。夫は、黒人が居るというだけで挨拶しにいくタイプの人間ではないが、彼自身がそうじゃなくても挨拶「される」のである(笑)
習慣や文化というのは、自ら進んで育まなくても、受け身の状態でも十分に身に付くものである。
夫自身はブラックだとかホワイトだとかで人間を見る人ではないのであるが、人からブラックだと見なされる事で身に付くブラックカルチャーという物は大いにあるのだ。その一つが、こういうブラック的挨拶であると思う。
前に「ステレオタイプ」のエッセーで書いたが、ステレオタイプでない人間に染み付いたこういうカルチャーこそ、奥深いのだ。
「クッ」の挨拶は、いつの間に交わされてるのかも、黒人男性でない者には知る由もない。非常にさりげない。何千回も何万回も繰り返されるうちに身に付いた、体の一部みたいなもの。
直毛にパーマをかけてドレッドヘアにするとか、パンツずり下げファッションといった「カルチャー」からは、ほど遠い位置にある。